第9講 締切り近くまで手をつけない時間効果

 

弁護士・公認会計士・通訳 黒川康正

 

 あなたの創作の原動力は、と聞かれて、「処女作以外は締切り」と答えていた作家がいたが、必ずしも冗談の気持ちだけではないと思う。最初の作品は自発的に書いたが、あとは「書かなければいけないから」書いた……いかにも、真実はこんなところではないか。
 夏休みの宿題を思い出せば、容易にうなずけるだろうが、締切りが迫って、追いこまれないと人間はなかなか仕事にとりかからないものである。
 だがこれは、計画性のなさや怠け心だけに帰因させなくてもよいようだ。切羽つまらないとやらないということは、切羽つまらせればできるということで、その締切り効果は案外効率的、かつ合理的なものだからである。

 かなり前のことだが、私の事務所のある秘書のケアレスミスから、パソコン入力した原稿の1行の文字数に行き違いが生じ、締切日の、事務所員全員で外出する30分前になって、パソコン原稿15枚分の依頼原稿を3分の2くらいに削らなければいけなくなった経験がある。むずかしい原稿で書き上げるのに1日半くらいかかっている。
 それをさらに短縮するには少なくとも2、3時間はかかると思えたが、なんとか時間内にやり終えることができた。加筆訂正削除が自在なパソコンのおかげもあった。だが最大の勝因は締切り効果、つまり、デッドラインを分単位で設定されたことから生じた集中力とエネルギーである。
 単純に時間比較をしてみても、通常のペースでやっていれば2時間くらいかかるところを、30分でこなせたのだから、締切り効果はかなり高い。締切りを設けることは時間効率のうえで理にかなっているのである。
 もっともこうした場合、「早くやらなくては」「間に合わなかったらどうしよう」というあせりが生まれやすく、精神衛生上よくない面もある。しかしそれも、自分のコントロールしだいだ。
 締切り近くなればかならずできる。そう自信をもって、その仕事はいったん忘れ、他の仕事に集中するのである。早く手をつけなくてはと最初からだらだら悩むより、ずっと棚上げしておいて、締切り近くで短い時間だけ集中して「苦しむ」時間をつくり出して一気にこなすほうがよほど効率がいい。

 その苦しむのがイヤだという人は、前もって少しずつこなしておくなどの方法をとればいいのである。
 先取りしてやることは大事なことだが、早いうちから仕事を固定化してしまうことの弊害もある。途中で状況が変化してすでに終えた箇所を訂正しなくてはいけなくなったといったようなケースだ。
 締切り近くならこんな危険性も低くなる。流動的な要素がもっとも少なくなってから、最新情報でやれるので、その意味でも効率的だし正確さも増す(先にいっても変化のない部分だけ先取りしてやっておけばいい)。「敵を十分引きつけておいてから弓の矢を放つ」のが精度が高く、効率的なのである。

 締切りの設定も、単に自分だけに課すより、取引先の担当者など他人と積極的に約束するほうが効果は上がる。
 他者との約束の拘束力はたいてい自己の意思のそれを上回るからである。その緊張感が集中力をより高め、より効率アップに通じる。